せっかくなのでもう少し引っ張る。
p48、「動作・行為の対象」用法が働きかけを表していること、つまり「××を」と言うときにはその××に対してなんらかの物理的・心理的な働きかけがあることの説明として、次のように述べられています。
まず、「移動の着点」が「を」によってではなく「に」によって表される、ということから考えてみる。次例は、本章第2節で先行研究に対する反例の一つとして挙げた文である。
(14) a. この間、山手線だと思って総武線を乗っちゃった。(=(3a))
b. この間、山手線だと思って総武線に乗っちゃった。(=(3b))
このように「〜を乗る」と言えないのは、「乗る」という行為が「総武線」に対する働きかけではなく、単に位置変化の移動を表すためである。
突っ込みどころはわかりますよね。
世の中には移動のためではなく総武線そのものが目的で総武線に乗る人もいる、まさしく総武線に対する働きかけとして乗る人が、少数とは言ってもけして無視できないほどいるのですが、そういう人は「総武線を乗る」と言うでしょうか。
いや、実のところ言わないこともない、稀に見聞きすることがたしかにあるのですが、しかしそのときにはかなりの違和感を伴っていて、不自然だがあえてそう言う、という雰囲気が漂います。それにまた、たとえばジェットコースターとか観覧車とか、誰にとっても移動手段ではなく乗ること自体が目的となるはずの乗り物を考えてみても、「ジェットコースターを乗る」とは言えません。
つまり、「××に乗る」と言えて「××を乗る」と言えない理由は、働きかけがあるかどうかという問題ではない、と私には思える。むしろ「乗る」という言葉にそういう性質があると考えたほうがいいんじゃないかという気がします。ま、素人の思いつきに過ぎない話ではありますが。