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2012年望春の掲示板

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 Re: 『箱入りドロップス』
 2012/06/06 10:09
塩見真一
>いまさらどうでもいいことなのになあ。

や、一昨日だっけ久しぶりに本屋へ行ってマンガを10冊ほど買ったら、その中の『朝霧の巫女(8)』がペーパー付きで、店員さんに「バーコードを読み取るのでビニールお剥がししてよろしいですか」と言われました。10冊も買うとしばらくは積んでおくことになるので、カバー不要・ビニールもそのままが私のデフォルトなのですが、ときおりこういう、ペーパー付きとか小冊子付きとかで裏表紙のバーコードが隠れていることがあって、その場合はしかたなくビニールを剥がしてもらうわけですが、んーむ、やはり後が面倒になるのであんまり嬉しくありません。好きで読んでる方の作品だとペーパーもスキャンして取ってあったりしますが、宇河弘樹のペーパーは初めてだな、初めて読んでみる方とか読んでみてあまり面白くなかった作品のペーパーは始末に困ったりもします。
……じゃない、バーコードだ。バーコードのせいでビニールを剥がさないといけないのは私としては少々困ります。なんとかならんものでしょうか。

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 Re: 『箱入りドロップス』
 2012/05/20 14:36
塩見真一
うーん、バーコード論争のことは覚えていないのですが、まあそのゲジゲジうんぬんもきっとその論争の一部だったんでしょうな。

>その時すでにバーコード化しているフランスあたりの人が「こっちでは本は番号で呼んでいる」という嘘かホントかわからない主張があったのですが…

あー、その人はきっと取次に勤めてたんですよ。
言った本人にとってはホントだったが、背景なしに伝えられたので嘘かホントかわからなくなった。まあ、伝えた人は嘘つきなんじゃないでしょうか。

しかしこれ、私としては「映画の看板は芸術か」という呪縛がまだ消えていないみたいです。高校に入ってすぐの美術の時間に先生がそういうような文章を読んで書き取らせて……いったいどういうつもりだったんだろうな、ともかく私は気が付いてみるとその映画の看板のような、芸術に似ているが芸術ではないことを仕事にしていた。
つまり「本の表紙は芸術か」。私は芸術ではなく実用品だと思うからバーコードを受け入れたうえで良いデザインを工夫するべきだという意見になるのですが、芸術だと思っている人がバーコードなんかゲジゲジだと言いたくなるのは、まあいちおう理解できる話ではあります。芸術としての本の表紙が、なんというかつまり現代社会の犠牲になったわけで、気の毒な話だと言ってもいいかもしれない。
けどやっぱり、プロだったら文句言うより手玉に取ってみせろよ、ばしっと腕のあるとこ見せろよそしたら話聞いてやるよと、そう私は思いました。ゲージュツ家きどりがつまんねー文句言ってやがると思ったから誰だったか何で読んだか忘れてしまったわけですが、話だけ覚えてるあたりが呪縛ですな。いまさらどうでもいいことなのになあ。

ちなみに、このデザインをやった方、奥付をめくってみると「装丁:木緒なち(KOMEWORKS)」とありました。拍手。

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 Re: 『箱入りドロップス』
 2012/05/18 23:09
みちる
おひさしぶりです。

バーコード論争ありましたね。
バーコード部分をはがせるシールタイプにしてという本もありました。
和田誠あたりが一生懸命運動していた記憶があります(いや読んでいた雑誌の連載が和田誠だっただけかも)

その時すでにバーコード化しているフランスあたりの人が「こっちでは本は番号で呼んでいる」という嘘かホントかわからない主張があったのですが…


はい その後取次にお勤めした時に本当に「番号で本を呼ぶ」社会に直面しました(苦笑)

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 Re: 『森林環境2012』特集…震災復興と森林
 2012/05/14 09:39
塩見真一
>この本の執筆者は大半が地元の研究者なので、そういうことにはならないでしょうけれど。

いや思い出したんだけどさ、いったいなぜ復興担当大臣に東北人をあてなかったんですかね。地元の人間だったらよほどのバカでも、あそこまでバカなことは言わねーですよ。

某アイドルグループが最近出したアルバムの中で、香取優花が「何やってんの ダメおじさん 民主党」と歌ってるんですが、いやまったくだ、何やってんの。

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 『森林環境2012』特集…震災復興と森林
 2012/05/12 09:17
塩見真一
森林環境研究会 朝日新聞出版 ISBN978-4-02-100207-6 2012年3月30日 定価:[本体2000円]+税

森林についてもうちょっと勉強しようと思ってまた買ってきた本……や、本を読むのではまたカジりかけの知識に紛れてしまうだけかもとは思うのですが、特定の視点を持つ本ならそれなりに得るところがあるだろうというわけです。
見出しをとにかく拾ってみると……「まえがき/災害と国土復興」「巻頭論文/震災復興と森林の力」「海岸林再生への展望」「津波に対する土地の高さと建築物の高さ」「宮城県岩沼市 みどりの復興プラン−愛と希望の復興」「震災前後における東北地方の森林・林業の状況」「復興に向けた地域林業・木材産業の取り組み−新たな地域連携を中心に」「森林 vs アブラヤシ農園 公正な闘い?」「再生可能資源による仮設「板倉の家」の試み」「自然再生と持続可能性の視点から「大災害」を考える」「NCCP カリフォルニアから始まる新たな保全の仕組み」「放射能汚染と森林」「きのこの危機 野生も栽培も」「チェルノブイリの教訓 放射能は地表にとどまる」「山古志に学ぶ 中越地震からの復興と地域再生」「長野県栄村 震災復興への挑戦」「大防潮堤の街、岩手県田老町の復興を追いかけて」「放射能汚染の土壌生態系影響−土壌動物学研究者に何ができるか」「“国民総幸福”の国づくり−ブータンの旅から」「デイゴの危機 竹富島での取り組み」「2011年 温暖化交渉の明暗」「2011年森林環境年表」、といった具合。執筆者のプロフィールをみるとやはり林学・農学各分野の研究者が多くて、ほかはジャーナリスト、林業家、建築家、地域NPO理事、といった感じ。

んー、中身とはあまり関係ないんだけど、「調査公害」という言葉を知りましたよ。学者・研究者が被災地へ調査に来ることが、現地にとっては迷惑な側面があるということだそうです。それどころじゃないところへやってきて、調査の成果は学会とやらへ持って行かれて現地には残らない。
そういえば飯舘村でオレは実験動物じゃないと言って健康調査を拒んだ方がいましたね。そんなつもりで調査してるわけじゃないだろうけど、しかし、調査者の見ている方向によってはそんな印象を与えることもあるに違いありません。この本の執筆者は大半が地元の研究者なので、そういうことにはならないでしょうけれど。

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 Re: 『箱入りドロップス』
 2012/05/09 09:58
塩見真一
この本を取り上げたのはもうひとつ理由があって、この裏表紙です。手前にいる目つきの悪い男が春日井陽一君ですが、彼の後ろに描かれているのがドロップの箱の裏側だというのはわかりますかね。このあいだ引用した「原材料名:〜〜」というのもドロップの箱の裏側に書かれているものですし、彼が手に持っているのが、ええとなんと言うんだろう、箱を開けるときにぴりぴりと引っ張って切り取る部分です。
まあそんなわけで、表紙とあわせて、雫ちゃんが学校デビューする第2話あたりのシチュエーションがうまく表現されているのですが、じゃない、そういうことじゃなくて、バーコードですよ。

わかります? 私はなんかへんだなあとしばらく考えてやっとわかったんですが、書店の方なら、あるいは現役の編集者なら見た瞬間すぐおかしいと思うかもしれない。これ、バーコードの位置が普通の本と違いますよね。ドロップの箱に付いてるバーコードみたいに、絵にはめ込んでありますよね。
いやこういうの、初めて見ましたよ。ううむ。

本の裏表紙にバーコードを付けるようになったのは私がまだ編集者だったころです。印刷屋にISBNを知らせておけば清刷をもらえるので特に面倒ではありませんでしたが、ただ、その清刷が正しいかどうかわからないのが困りものでした。自分が知らせたISBNが間違っていないか、印刷屋が間違えていないか、もらった清刷を別の本の版下に貼っていないか、もし間違っていたら出荷できなくなってしまうのに確認する方法がないんですよ。今ならケータイで読んでみれば済むし、それ以前に自分で作れるでしょうけれど、2冊同時進行しているときなんかもうどうにもこうにも不安でしたね。
それで、私はそういう不安が厭だっただけですが、業界の中にはバーコードを「ゲジゲジ」と呼んで嫌う人もいました。いましたというか、新聞のコラムかなんだったかで読んだんですよね、そういう話。
まあ、気持ちはわからないでもありません。不細工だしデカいし、デザイン上ひどく邪魔なものだというのは間違いないです。けどねえ、それで文句言うのはプロじゃねえですよ。本は商品、取次店に運んでもらい書店に売ってもらうものなんだから、そのためにバーコードを付けるんだから。
工夫してきれいに納めるのがデザイナーの腕というものではありませんかね、やーそうは言ってもこれはちょっと無理ですよ塩見さん、ですよねー……、というような会話をデザイナーさんとした覚えがあってそれがなんかずうっと引っかかっていたんですが、なるほど、こういうやりかたがあったかあ。

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 『箱入りドロップス』
 2012/05/06 12:27
塩見真一
津留崎優 芳文社 ISBN978-4-8322-4146-6 2012年5月11日 定価:[本体819円]+税

えーと、表紙で箱に入っているこの子は、と、ひとまず裏表紙のコピーを持ってこよう。
種類別名称:箱入り娘 内容〜〜〜〜〜〜〜原材料名:悪い虫のつかないよう、大切
に育てられた天然素材 賞〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜取り扱い上の注意:世間知らずな
ので、都会の情報には十分注〜〜〜〜〜〜奇心は旺盛です。焼きそばパンに感動した
り、ス○バで緊張したり、バレー〜〜〜〜を知らなかったりと大層可愛いです。 製
造者:津留崎優 販売者:株式会〜〜〜〜〜〒112-8580東京都文京区後楽1-2-12

というわけで、この子が原材料の天然素材、西村雫、高校1年生。大切というか過保護というか、おじい様が厳しくて家から出たことさえないという箱入り娘だったのですが、そんなのはおかしいとお姉ちゃんが起こした反乱によりアパート暮らしを始めることになりました。
雫の世話を見ることになったのが、隣の部屋に住む春日井陽一、地顔が怖い同じく高校1年生。ひとまず街を案内してやるのですが、雫にとっては「日常生活」のほとんどが初めてなんだな、自動販売機で飲み物を買うとか、コンビニで買い物するとか少女マンガを読むとか。さらに、学校へ行くとか横断歩道を渡るとか弁当を持っていくとか、睡魔に襲われるとか寒いシャレを聞かされるとか、キリがないのでこのへんにしますが、そういうこともぜんぶ初めてで、何につけてもいちいち反応がういういしくて、たしかに大層可愛いです。

まあなんだな、設定がかなりに無理だし、そういう設定が必要かというとそんなこともないんじゃないかと思うんですが、そのへんはあんまり気にしないで、同級生たちといっしょに、にまにましながらこの二人を見守ってやるのがいいんじゃないでしょうか。れっつ、にまにま。

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 Re: 「原発事故と放射能汚染」
 2012/05/04 09:48
塩見真一
もうひとつ、これは先生からの伝言。私のほかにも甲府や北鴻巣や仙台や山形や、遠くから来ている人がわりと多かったので、県外の方はぜひこのことを覚えて帰って身近の方に教えてくださいと言われたのです。

福島の人々が意外に明るく見えるのは、そうしなければやっていけないからだ、ということ。明るくふるまうことが希望だから、不安を抱えていても表に出さないだけなのだということ。

ほんとにそうなのかどうかは、私にはわかりません。
……「意外に明るく見える」というのもちょっとわからんですね、「日常を取り戻している」ようには見えるので、それを「意外に明るい」と思う人もいるかもしれませんが。

写真は2日目の朝、常磐線で広野駅まで行って、折り返しの合間に歩き回って中学校の校庭で見つけたもの。点々と木を伐った跡がわかりますかね。手前のはたぶんドウダンツツジかなにか、フェンス側のはカイヅカイブキかなにか、2段の植え込みだったのでしょう。伐ったのはおそらく除染のためで、伐るのがたしかに理にかなっているのだけど、しかしそれでも、この学校に子供たちは戻ってきていない。私としては、なんともやりきれない光景です。

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 Re: 「原発事故と放射能汚染」
 2012/05/03 09:36
塩見真一
授業で聞いたことの中から続き。

原発事故に関して先生が一番残念に思っていることは、福島に対する差別・忌避が日本国内で起こったことだそうです。福島から避難していった子供が学校でいじめられるとか、福島で作られた花火や橋脚(私の記憶では脚ではなく桁でしたが)が拒絶されるとか、広島・長崎に対してそんなことはなかったのに……というお話でした。

そういう風潮は私もおおいに腹立たしく思っているところですが、「広島・長崎に対してそんなことはなかった」というのをちょっと考えてみると、つまり科学知識が中途半端に普及したからそんなことが起こるのだと、言えませんかね。
「放射能」が危険だとは皆が知っているが、きちんとした知識、たとえば「放射能」と「放射線」や「放射性物質」の区別や、瞬間被曝と積算被曝の区別や、自然放射線や被曝許容量についてはほとんどの人が理解できていない。理解できていてなおあんなことになるほど日本人は非情自己中心的じゃないはず、と私は思いたいです。

というか、知識・理解が中途半端なのは日本人全体としてはしかたない話だと思うんだけども、しかたないでは済まされない立場の人も何人かはいるわけですよね。「放射能を付けてやる」の人は辞めちゃったからいいとして、「ただちに人体に影響はない」の人はその意味をどれだけ理解して言っていたのか、気になりませんか。

写真は昼休みに夏井川の河原で。

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 Re: 「原発事故と放射能汚染」
 2012/04/30 12:30
塩見真一
授業で聞いた話からいくつか。

まず、先生が「(原子力研究者の)レベルが下がったなあと思った」と仰ったのが、私には印象に残りました。
先生の恩師という方は太平洋戦争中に原子爆弾を開発しようとしていた方なんだそうですが、原子力船「むつ」が中性子漏れを起こしたとき研究室に電話がかかってきて、船でも飯なら炊けるだろう握り飯を作ってふさげと答えていたというんですね。中性子線は水で遮蔽できる、握り飯の水分で(かなりの量は要りますが)応急遮蔽はできるわけです。
初期の研究者は何もないところから考えていたから異常時の対処についてもごく当然に意識していた。だからとっさに握り飯が頭に浮かぶ。しかしシステムができた後から始めた人はその裏側をふだん意識していないのだろう、結果、電源喪失に対してロクな対処もできず、よりによって風が陸側へ吹いているときにベントを開いてしまった、ああレベルが下がったなあ、と。

で、これと同じこと、技術の黎明期を知っている人が逞しいこと、知らない人がひ弱な知識・技量しか持たないということ、そういう傾向がいろいろな分野について言えると思うんですね。
とりあえず私は、自分がこの進歩の速いコンピュータ技術にだいたいついていけるのはあの頃があったからだと、8bit CPUでメモリが32KBで、アセンブラで変数のアドレスを計算したりBASICでなんとか構造的なプログラムを書こうとしたりした経験があるからだと思うことがしばしばあるわけです。そういう経験をしたのはたまたまそういう時代に生まれ合わせたからで運がよかったと思うことも多いのですが、しかし逆に、ドキュメントを書く立場、技術を伝える立場としては不安になることもあります。つまり、ある技術を私が理解できるのが「あの頃の経験」のおかげだとしたら、その経験のない人にその技術を理解してもらうためにどうしたらいいのか、私には正直なところわからない。努力はするけど、最終的には理解してもらえるよう祈るだけです。

写真はいわき駅の構内。読めますかね、「広野方面」というステッカーの下にはきっと「原ノ町・仙台方面」と書かれていたに違いないのですが。

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 「原発事故と放射能汚染」
 2012/04/27 09:34
塩見真一
……という面接授業を、先週末いわきへ行って受けてきたのでそのまとめ。

1日目は核エネルギーと放射線、原子力発電は簡単に済ませて、原子爆弾と広島・長崎の被爆者について。
2日目は福島第一原発から放出された放射性物質がどのように広がっていったか、降ってきた放射性物質がどのように溜まっているか、人体への放射線の影響をどう考えどう計算するか。あいまにちょっと外へ出て線量の測定。「こういうあたりは線量が高いわけです」と、落葉が積もったあたりを先生が測定しているところが左の写真ですが、私の持って行った線量計をそこへ並べてみるとぴくりともしなかったりしました。

全体としては「放射線と正しく向き合おう」、怖がりすぎてはいけない、正しい知識を持ったうえでしっかり考え判断して放射線の中で暮らしていこうという姿勢です。いわきの現状を計算してみるとぜんぜん大丈夫、線量の高そうなところを避けさえすれば子供にとっても十分安全。しかし安全と安心は違うわけで、安心できないなら逃げたほうがいい。安心かどうかは自分で決めるしかないわけです。
ちょうど先生の娘さんがいわきに住んでいて今度5月に子供を産む予定なので、不安を抱えて子育てするのは子供のためにも良くない、私は安全だと思うがおまえたち夫婦で決めなさいと言ったのだそうです。娘さんはしばらくたって、いわきで産んでいわきで育てると言ってきたということでした。

人の話を鵜呑みにしてはいけない、と、面接授業みたいな場でもそれは成り立つしいっそう注意しないとならないのですが、「まあ私も、安全だと思ってはいるけど、孫の顔見たらね、すぐ逃げろと言いだすかもしれませんけどね」と、そういう人の言うことはひとまず信じていいんじゃないでしょうか。

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 『土壌と農作物の放射性核種汚染』
 2012/04/13 10:45
塩見真一
浅見輝男 アグネ技術センター ISBN978-4-901496-61-2 2011年8月30日 定価(本体2,000円+税)

これから8月までに受ける面接授業のうちいくつかの予習として買ってみた本。
原子力関連の授業は今期になって急に増えて、それは当然ではありますが、しかし昨年後期には間に合わなかったのだなと思ったり、そもそも事故が起きてしまった時点で間に合わなかったと言うべきじゃないかと思ったり。とにかく私は今期原子力関連で2科目、自然エネルギー関連で3科目、森林関連で2科目、本州の端から端まで行く予定です。

さてこの本、著者の浅見さんは農学博士で、カドミウムなど重金属による農地・農作物の汚染を専門に研究されていた方です。
120ページのぺらっとしたつくりですが、3部構成になっていて、まず「福島第一原発大事故の経緯と放射性核種の排出」。事故がどのように起こったか、どの程度の放射性物質が撒き散らされたか、土壌がどの程度汚染されたか、農作物がどの程度汚染されたか。2012年6月下旬ごろの情報がまとめてあります。間に食品の放射性物質汚染についてと、土壌の除染方法として何が提案されているか。
続いて「大気圏内核爆発実験による日本の土壌・作物汚染」。大気中で核爆発を起こす実験は1945年以来423回行われたのだそうで、1954年の第五福竜丸事件を契機にその影響が調べられています。土壌中でのセシウム137やストロンチウム90の挙動、イネやほかの農作物に吸収されるしくみ、年月を経てどのように汚染状況が変わっていくかといった調査結果がまとめてあります。
第3部は「チェルノブイリ原発事故の環境影響」。事故の経緯と汚染の状況、周辺地域で行われている農業上の対策。

巻末に資料として、著者浅見さんが、東海村臨界事故の起こった1999年に日本学術会議「安全に関する緊急特別委員会」で原子力産業の安全確保の状況について書いたレポートなど。浅見さんは「原子力には素人であるが」と言いながらこれを書いているのですが、いやつまり早い話、素人が見たっておかしいことが繰り返されてきているんです。
1956年に発足した原子力委員会が無謀な計画を立てたことはまだしも、1979年スリーマイル島事故、1986年チェルノブイリ事故、この現実を見てさえ政府も業界もまともに対応しようとしなかった。1990年の参議院外務委員会で「我が国の原子力施設におきましては……(中略)……シビアアクシデントが起こるとは現実的には考えられない程度にまで安全性が高められていると考えております」という政府答弁があったそうですよ。
史上3番目の大被害をもたらした東海村臨界事故はその9年後に起こったとか、さらに12年後には史上最大の福島第一原発事故が起こったとか、わざわざ言わなきゃならない話ですかね。

引用が多かったり同じ資料が繰り返し使われていたり、本としてはあまりほめたものじゃないとは思うし、なんにしても鵜呑みにしてはいけないけれど、しかし、本当に間に合わなかったのだなと思ったり、そもそも間に合う目がなかったんじゃないかと思ったり。

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 『改訂 森林資源科学入門』
 2012/04/07 10:54
塩見真一
日本大学森林資源科学科編 日本林業調査会 ISBN978-4-88965-171-3 2007年4月1日−2010年4月20日第2刷 定価2,500円(本体2,381円+税)

ついでに買ってきた本その2。

どういう本かというとまあ書名のとおりで、森林の利用に関わる勉強を始めようとする人、主に大学で森林を専攻する学生むけの概論書です。
第1部が「森林を考える」として「写真と統計で見る森林」「写真と統計で見る木材利用」「森林のいろいろな定義」「野生動物と人間社会の軋轢の背景」「森と共生する住まい」の5章。
第2部が「森林科学の基礎」、森林科学は大きく3つの観点に、つまり森林を生物の集団と見る観点と、資源として評価する観点と、同じく資源として見るのだけれども主に利用・管理技術に着目する観点に分けられるということなのでそれに沿って3つのセクションに分かれていて、「森林の植生と多様性」「菌類の多様性と共生」「種多様性を支える昆虫」「野生動物の保全」、それから「土砂の保全」「熱・水循環の保全」「景観域と森林モザイクの保全」、そして「森林資源の循環利用を支える林業の役割」「生物材料としての木材の特性」「木質バイオマス成分の利用」「環境を守る木造住宅」と、全部で11章。
第3部が「これからの森林研究」で、「環境教育」「居住環境と木材」「日本の森林の変貌」「ブナ林再生のために」「木質昆虫学ことはじめ」「森林のモニタリング」と6章。
筆者が全部で16名、どういう方々だか紹介は見当たらないのですが、まあたぶん日本大学森林資源科学科の先生方なんでしょう(学部名が省かれているのはなぜですかね)

第2部の途中、昆虫の話あたりまで読んだところなのですが、ううむ、私はつまり「森林の利用に関わる勉強をあちこち齧りかけの人」、なんだよな。これまでに少し齧った話がほとんどなので、ふむふむなるほどとは思うけれども、目を見張るような発見、沁みいるような新知識はまだ出てきていません。
……よくわかっているわけじゃないのにこういう反応になるのはあまりいいことじゃない、森林について勉強する方法をもうちょっと工夫しないとな。

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 『季刊地域No.7』特集いまこそ農村力発電
 2012/04/03 19:49
塩見真一
現代農業2011年11月増刊 農文協 雑誌03476-11 定価900円[本体857円]

宮脇昭さんの本を買いに行ったとき、並びの棚でこんなものを見つけたので買ってきました。

「農村力発電」というのはもちろん原子力発電に対して言っているわけですが、表紙にあるような中小水力発電が中心です。長野県辰野町で出力0.3KWのピコ水力「庭先発電」をしている倉澤さん、岩手県葛巻町で太陽光発電とオンドル床暖房に取り組む高家さん、富山市(のはずれ)で砂防ダムを利用して1.4KWの小水力発電を行う土遊野農場の橋本さん、自治会が中心になって2.2KWの水車を作った岐阜県郡上市石徹白地区、昭和32年から稼働し続けている島根県奥出雲町の三沢小水力発電所(90KW)、山口県上関町祝島……有名ですね……の自然エネルギー100%プロジェクト、山形県新庄市土内地区の小水力発電実験(8KW)、大分県豊後大野市緒方地区で大正3年から稼働している富士緒井路第1発電所380KW、宮崎県日之影町で昭和57年から稼働している日之影発電所2300KW、熊本県山都町で平成17年から稼働している清和発電所190KW、高知県梼原町の電力自給プロジェクト、小水力発電プラントの専業メーカーイームル工業、ドイツ南西部フライアムト村のエネルギー農業とそこへ見学に行った飯舘村の中学生たち、鳥取県智頭町の木の宿場プロジェクト。ほかに「続・東北はあきらめない」飯舘村の現況や岩手県住田町の仮設住宅、群馬県片品村での避難者支援など。

つまり、農村力というより、地域の力、コミュニティの力、その土地に住むことの力なんだな。
いやつくづく思ったんですけどさ、私はこれまで「地域」というものにまるで関わらないで生きてきてるんですよね。子供の頃を過ごした東村山はニュータウンで、地域社会というようなものは実質的に存在しないも同然だった。その後住んだ中野には、それなりに存在していたはずだと思うけど私が意識することはなかったし、もう10年も住んでいる西新宿でも存在を時折感じるだけで、積極的に関わろうとすることはお互いにない。
こういう人は少なくないはずだとは思うんですが、しかしうーむ、それでいいのかというと、いいとは言えない気がする。どんなもんですかね。

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 『三本の植樹から森は生まれる』
 2012/03/31 11:19
塩見真一
宮脇昭 祥伝社 ISBN978-4-396-62052-3 2010年4月10日 定価:[本体1000円]+税

文句なしの「木を植える人」、宮脇昭さんの本をひとつ。

私が最初に読んだ宮脇さんの本はたしか新潮選書『木を植えよ!』だったと思うんですが、どうも手元にないみたいなので、本屋へ行ってひとつ買ってきました。まあ、あんまりいい選択じゃなかったかもな。他にも何点も出ているし、最近の著作だと河出書房新社『「森の長城」が日本を救う』、福島・宮城・岩手の沿岸部にがれきを積み上げ木を植えて堤防林を作ろうというテーマで書かれたものが出ていますが、そっちはまた話がそれていきそうな気がしましてね。けどそうだな、宮脇さんが木を植える理由には「森はいのちを守ってくれる」という、て、この本でもオビに書いてありますね、「木はいのちと心と遺伝子を守ってくれる」、だから木を植えようというのが宮脇さんの主張なので、堤防林を作ろうというのは自然な流れです。

宮脇さんはもともと植物生態学者で、日本全国各地の潜在自然植生、つまり人間の影響がなかったとしたらそこにはどんな植物が育つはずかということを「鎮守の森」に着目して調べたのが大きな業績ですが、その間に、自然な植生はそれぞれの土地でしっかりいのちを守っているというような考えかたに至ったようで、「環境保全林」を作る活動を始められます。
私が最初にそれと知ったのは青山一丁目、ホンダ本社ビルでした。ビルの周囲に幅1メートル程度、ヤマモモやタブノキやユズリハやアオキが植えてあり、生け垣にしては高いし街路樹にしては列になってないし、いったいなんだろうとそこを通るたびに思っていたのですが、あるときそれが宮脇方式だと気がついたのでした。
土を少し盛り上げ、潜在植生を構成する植物を高木・亜高木から低木までなるべく多種をごちゃまぜに、きちんと並べないように、みっしり植える。苗はなるべくその場所で拾った種をビニールポットで80センチくらいに育てたもの、植えた後は藁や枯れ草で土を覆い飛ばないように藁縄をかける。自然な植生は維持の手間がかからないから、そういう植えかたをすれば3年後には除草の手間も要らなくなり、15年後には天然に近い森ができる。地面をしっかり押さえて土砂崩れや風を防ぎ、火も防ぐ。狭くてもいい、3本でもいい、生活の場にそういう森を作ろう、というのが宮脇方式の植樹です。

「奇跡の宮脇方式」という副題はどうかと思うけど、まあ、これだけ広く受け入れられていることは奇跡といってもいいかもしれない。日本国内だけでなく、マレーシア、ボルネオ、タスマニア、中国、モンゴル、ケニア、アマゾン、各地の潜在植生に沿って多種を密植するという宮脇方式の植樹は1700箇所4000万本に及ぶとのことです。でもまだまだ点にすぎない、皆さんにも3本ずつでいいから木を植えてほしい、私も植えます、というのがこの本を通じての宮脇さんのメッセージです。

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 『エンデュアランス号漂流記』
 2012/03/28 12:07
塩見真一
アーネスト・シャクルトン 中央公論新社 ISBN4-12-204225-9 2003年6月25日−2009年4月15日再版

せっかく話がつながったので、シャクルトンの『エンデュアランス号漂流記』を取り上げておこうかと。

シャクルトンという人はそれほど有名ではないと思いますが、アムンゼンとスコットが人類ではじめて南極点に到達した時代のイギリスの探検家。スコットの前に極点へ向かって88度23分まで進み、スコットはその同じルートをたどって極点に到達したのでした。そのときシャクルトンはイギリス本国に戻っていて、極点が制覇されたことを知ると次の探検として南極大陸横断を企て、1914年12月、南極へ向かいます。
夏の間に上陸して越冬し次の夏に犬橇で大陸を横断する計画だったそうですが、氷に阻まれて上陸できず、それどころか航行の自由を失って、氷に閉じ込められたまま大陸沿岸を漂流するに至ります。氷の上を歩いて上陸するという選択肢はなかったのかとも思うのですが、とにかく10ヶ月流されたところで、船がとうとう氷に押しつぶされて沈没します。シャクルトンたち28名は氷の上でキャンプしつつさらに流され、氷が小さくなると3隻のボートに乗ってエレファント島にたどり着くのですが、シャクルトンはさらに救援を求めて800カイリ離れたサウスジョージア島へ、5名の隊員を率いて向かいます。小さなボートで南氷洋を乗り切るだけでも驚くのに、ちゃんとサウスジョージア島に着き、雪氷に覆われた島を横断して捕鯨基地に着くのですから言葉がありません。
さらに凄いのはここから。シャクルトンは島の総督から船を借りてエレファント島に向かうのですが、またしても氷に阻まれ燃料切れで救出に失敗するんですね。それでもシャクルトンは諦めない。ウルグアイ政府やチリ政府の船を借りて、救出を試みること3回、実に4度めの航海でエレファント島に到達し、残留隊員22名全員を連れて帰ります。
全員生還。船を失った探検隊で全員が生還したというのは、これはたしかに稀有な事績に違いありません。

ひとつ面白かったこと。この当時、鋼鉄船はまだ信頼されていなかったのですね。エンデュアランス号も、ナンセンのフラム号も、白瀬の開南丸も、流氷群を突き抜ける頑丈な船は木造に決まっていた。造船技術がちょうど木から鉄へ移っていく時代だったのですな。

ひとつ不可解なこと。船の名前の「エンデュアランス」というのは日本語で言うと「耐久力」、この探検にふさわしい名前だと思うのですが、誰も、シャクルトンも翻訳者木村義昌・谷口善也の両名もそのことに触れていない。耐えきれず沈んでしまったから、ですかねえ。

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 そのプログラムは信用できるのですか
 2012/03/26 10:12
塩見真一
ここの掲示板システムがちょっとした問題を起こして、しばらくぶりにプログラムを調べています。とあるオープンソースソフトウェアをベースに私がかなり手を入れてきたものなんですが、……て、言い出すとキリがなくなる、とにかくそれをやっていてふと思ったのは、原発耐性評価プログラムのソースコードは公開されていないのか、ということ。
大飯原発のストレステストを原子力安全委員会が承認したという話ですが、プログラムがバグっている危険をはたしてどれだけ検討したのか、まさか想定外なのか、プログラマの端くれとして非常に気になるわけです。

ソースを公開したからといってバグが見つかるわけではありませんが、でもこの不信が渦巻く世情を考えたら、信用を得るためにソースコードと仕様書を公開するくらいのことはしたっていいと思うんですがね。

まあ少なくとも福島第一原発と東日本大震災のデータを入れたらどういう結果が出るかを公表してもらわないと、私は信用する気になれませんです。

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 Re: 『木を植える男ポール・コールマン』
 2012/03/24 10:36
塩見真一
ちょっと話が終わらなかった。私の言う「神サンが言うてはる」はどういうことか、「意識を集中すれば空気より軽くなる」と同じくらい非科学的なのになぜ私はそれを受け入れるのか。

いくつかのケースがあるみたいで自分でもまだ十分整理できていないのですが、さしあたり、事故ったが死ななかったようなケースについては、次のような考えかたのようです。
(1) 偶然にそういう結果になったのであって、なぜそうなったか理由・原因・因果関係を考えても意味のある答えは出ないことがわかっている
(2) しかし結果が重大であるため、単なる偶然と言って済ませるのはどうも落ち着かない
(3) そこで神サンにお出まし願い、いちおう理由があることにしていただく

……と、神サンにしてみたら迷惑な話かもしれませんが、つまり「神サンが言うてはる」はあくまで後付けの方便。「事故ったが死ななかった」という事実の側ではなく、その事実を受け止める私の側にある。要するに脳内の話なので、そしてそのことが私にはわかっているので、非科学的でもかまわないわけです。

ちなみに、この話をするとき「神サンが言うてはる」と関西の言葉遣いになるのは、もともと私がこの考えかたを田辺聖子さんの小説から学んだからですが、それだけではなく、なんというかな、関西の神サンだったら「なんやえらい迷惑な話やな。まあしゃあないで、次からしっかりしぃや」とかなんとか、言ってくれはりそうな気がするんですよね。
……『かみあり』を読み返してみるかな。

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 Re: 『木を植える男ポール・コールマン』
 2012/03/20 10:49
塩見真一
ポール・コールマンの「スピリチュアル」についてまたしばらく考えてみました。私がたとえば、葛尾で事故ったが死ななかったことを「まだ生きてなんかせえと神サンが言うてはるのやろ」と表現するのと、どこがどう違うのか。
ひとつわかった気がしたのは、94ページのコラム「雲の上を歩く〜ポール・コールマンの生きる知慧(5)」のところでした。
(省略:砂漠を歩いているとき友人に電話したら「雲の上を歩くつもりで歩くと楽だよ」と言われたという話)
 半年後、私は雪に覆われたアルプスの山を歩いていた。(省略)すでに日は暮れ、雪はどんどん深くなり、太腿の高さまでになった。斜面は急で、眠る場所を見つけることもできず、次第に疲れ果て、私は、自分が雪の中に倒れて凍え死ぬヴィジョンを見た。
 友人の言葉を思い出したのは、そのときだった。そうだ、あれをやってみよう。早速、私は雲の上を歩いているところをイメージした。
「僕は雲の上を歩いている、雲の上を歩いている。」
 すると、驚いたことに足が雪の中に沈まなくなった。
「うわお! 雪より軽くなった!」
 叫んだ途端、太腿まで雪に埋まった。(省略)何回か繰り返すうちにコツをつかんだ。意識を集中して、「雲の上を歩いている」ということだけを思い続ければいいのだ。すると、本当に楽に雪の上を歩けるようになり、いつの間にか横になって休めるような場所にたどり着いたのだった。
 こんな風に、私たちは、イメージすることで空気よりも軽くなれる。ただ、その考えに意識を集中すればいいのだ。

どうですか。
私は最初、ばーかこけ、と思いました。3年前だったかな、膝上まで雪に潜る状況を私は那須の百村尾根で経験しています。黒滝山のひとつ手前のピークまで登ったところで、体力はまずまず持ちそうだがこの先は傾斜がさらにきつくなるし雪もさらに深くなるだろうし登りはいけても降りは難しい、これ以上進むのは危険が大きい、と判断して引き返したのでした。
意識を集中することで人間の能力は限界近くまで引き上げられますが、限界自体は変わりません。意識次第で雪山を楽に歩けるなどと、バカもいい加減にしろという話です(だいたい日が暮れた後で歩いているというのが山をナメている)

さて最初はそう思ったのだけど、しばらく考えているうちに、この話の裏に合理性があることに気が付きました。つまり、「ふわぁっと雪を踏めば足が沈まないで済む」ということです。凍った道でギアをセカンドに入れてそろぉっと発進するのと同じ理屈だし、叫んだりすれば途端にずぼっとはまるのも当然、イメージすることによって身体の動きはそれらしくなるだろうし、不思議は何もありません。

とすると、ポール・コールマンの言うことが私にバカバカしく聞こえるのはつまり、理由を考えていないからなんでしょうな。少し考えればきちんと理解できることを、考えもせず鵜呑みにする。それを「生きる知慧」などと言われると、私としては受け入れられんですよこれは。

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 Re: 『木を植える男ポール・コールマン』
 2012/03/14 12:24
塩見真一
いったい何がどう胡散臭いか。

第1は、彼ポール・コールマンが、んー「スピリチュアル」な人だということ。
まずそもそも地球のために働こうと思った直接のきっかけが、アイスランドへ行ったときに嵐の中で地球の創造と未来のビジョンを見たことだと、いうんですね。神秘体験を否定はしませんが……私だってランファに抱きつかれて耳元でささやかれる体験をしていますし……、でもやはり脳内彼女以上に肯定はできないわけで、人が生き様を決める理由としてはなんだかなーと私は思うわけです。

第2には、彼が木を植える動機・意図がはっきりしない。
まずはじめは、「メキシコの奇跡」と書かれているんですが、たまたま誰かが木を植えようとしているところに行き合わせただけみたいなんですね。苗木を持った人が現れた、って彼は精霊の手助けだと思っているらしいけど、とにかく彼自身の意志ではなかった。
まあ、物事のきっかけはたいていそういう偶然かもしれません。しかしその後彼は、歩いて行った先で役場に行って「戦争で亡くなった方のために植樹をしたい」と言って植樹式を開いてもらうのだそうです。いやそれ戦死者の慰霊って、地球のためにというのとまるで違う話じゃありませんか。
だいたい、そうやって彼が植える木は街路樹・公園樹だし、儀式としての植樹だし、地球のためになるかと言えばまあやらないよりはマシという程度のことでしかない。地球の美しい未来を守りたい人が木を植えるのなら、もっと違う植えかたになるはずで、彼が本当のところ何をしたいのか私としては疑問を感じざるを得ません。
それになあ、私は宮脇昭という人の存在を知っている。こんなんで「木を植える男」とか言われてもなーと思うわけです。

まあねえ、人間的な魅力のある人なんだろうなとは思うんだ。人間的魅力の前では、上に挙げたような難点がかすんで欠点に見えないことは……見えなくていいのかどうかはさておいて……、事実しばしばある。
でもこの本ではそうは見えないんだな。ポール・コールマンが魅力ある人間には見えず、難点がはっきり見える。つまりこれは「文章力」の問題なんだろうなと、思いますが。

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